赤坂憲雄の喜多方だより

赤坂憲雄
1953年、東京都生まれ。北方風土館館長。学習院大学教授。専門は民俗学。
2020年3月までの17年間、福島県立博物館館長を務めた。
現在喜多方市政策推進顧問として文化面から喜多方の地域振興に取り組んでいる。

13 神隠しされた街にて 2021年4月27日

 詩人の若松丈太郎さんの訃報が届いた。若松さんの詩に初めて触れたのは、震災後のいつであったか。衝撃を受けた。その衝撃は体験したことがない肌触りのものであった。そこにはたしかに、チェ ルノブイリの街から福島を思いやり、原発の爆発事故のあとの福島 が幻視されていたが、その書かれた日付は3・11のはるか手前であった。
 「私たちが消えるべき先はどこか/私たちはどこに姿を消せばいいのか」「鬼の私はとほうに暮れる/友だちがみんな神隠しにあってしまって/私は広場にひとり立ちつくす」「神隠しの街は地上にいっそうふえるにちがいない/私たちの神隠しはきょうかもしれない」(「神隠しされた街」)

 福島の未来を予見

 詩人の想像力がたぐり寄せ、幻視のように浮かびあがらせていた福島の未来が、いま・そこに、むきだしの現実となって転がっている。神隠しに遭った街こそが現実であることに、それを予見していた人がいたことに、しかも、それ が詩人であったことに、わたしは畏れをいだく。
 福島県立博物館にもお招きして対談させていただいた。あくまで寡黙に、言葉をひとつひとつ探しながら語られる、もの静かな姿が印象に深い。哀しみも怒りも沈めて、ただ、いま・そこに顕われてしまった世界を凝視している。詩人という存在に、もしかすると初めて敬愛の念をいだいた。詩の言葉から、文学の言葉から励ましを いただいた。
 震災後、わたしたちの言葉は荒れすさんだ。科学の言葉が真っ先に失墜した。原子炉のなかで何が起こっているのか、ついにきちんと説き明かしてくれる専門家はいなかった。爆発事故よりも、それを語る言葉が不在であることに、不安を掻き立てられた。そんなワ ケのわからないものに未来をゆだねることはできない、と感じた。それはいまも変わらない。
 あるいは、政治の言葉が途方もない速度で劣化していった。あるべき政治とは、分断と対立を超えて、思想信条や利害を違える政治家たちがなんとか言葉をあやつり、少しでも多くの人々が納得できる落としどころを探すプロセスであり、その技法ではなかったか。 問答無用の数の論理だけが支配する場には、そもそも民主主義は存在しない。数を頼みとする権力が避けがたく腐敗する姿は、この国だけではなく、世界のあちこちで目撃されている。世界って、まだ こんなに野蛮に満ちていたのか、と思わずにいられない。言葉なき民主主義はありえない、民主主義は言葉だってことを忘れてはいけない。

 人と人の分断繋ぐ

 だから、詩や文学の言葉が再発見されてほしい。太宰治の言葉を思いだす。太宰はみずからの得意科目は「愛」だと広言し、「優しさ」とは人を憂えることだと語った。愛も優しさも尽きるところ、 他者を思いやり、自分とは異なった他者へのやわらかく開かれた想像力のうえに育まれる。詩人も作家も社会的には弱きカナリアである。それゆえに、かれらの傷ついた言葉はときに、分断されている人と人とを繋ぐ見えない力を秘め ている。
 若松丈太郎さんの残された詩に、わたしは励まされる。「世界の音は絶え/南からの風が肌にまとう/われわれが視ているものはなにか」(「みなみ風吹く日」)。 みなみからの風に眼を凝らせよ。ご冥福をお祈りします。

福島民友「赤坂憲雄の喜多方だより」2021年4月27日 掲載

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1 幼い記憶のかけらを携えて 2020年4月29日

 この春から、喜多方に小さな文化の拠点をつくるために働きはじめる。なにができるのか、なにが始まるのか、まだ曖昧模糊としている。いつだってそうであったように、またしても零からの出立である。わくわくしている。この連載では、喜多方という土地とそこに暮らす人々との触れ合いを仲立ちとして、わたし自身の東北学の最終章をつれづれに紡いでいき たい。
 わたしの故郷はとりあえず福島である。父親はたしかに、福島県東白川郡鮫川村大字渡瀬の出身である。父が生きているころは、本籍といえばその住所を書いていたから、馴染んだ地名である。

 思いも寄らぬ宣告

 ちょっとミステリアスな話になるのだが、こんな幼いころの記憶がある。どこで、だれから聞いた話なのか、さだかではない。先祖のなかに、なにか事件に巻き込まれて死んだ人がいる、という。福島のどこかで…。なぜか、その人の名前も覚えている。そんな幼い記憶のかけらが、からだの深みに沈められてきた。意味はわからなかった。
 福島県立博物館の館長になってからであるから、十五、六年前であったか。あるとき、東京のどこかで講演をした。終わってから、 六十代とおぼしき見知らぬ男性が近づいてきた。そうして、いきなり、「あなたとわたしは親戚です」と話しはじめたのだった。思いも寄らぬ宣告に呆然として、身構えた。すると、その人はポケットから色褪せた新聞の切り抜きを取り出して、「これを見てください」と言った。あくまで生真面目な顔であった。そこには、「自由民権運動のころ、会津の喜多方で、〇〇という医者がその運動のパトロンになって、留置場に入れられた」といったことが書かれてあった。一読しただけで、記憶の改竄があるかもしれない。それ以来、その人とお会いしたことはない。なんだか、夢のなかの出来事のように、すべてがゆらゆらと揺れている。しかし、そこに見える〇〇という名前は知っていた。あの遠い記憶に登場する名前だったのである。

 秘されていた物語

 その話を、父親の三十三回忌のときに、はじめて兄弟たちにぶつけてみた。わたしは六人兄弟の末っ子である。一番上の兄とは十五歳ほど離れている。当然、とりわけ長兄はなにかを知っているはずだと思い込んでいた。ところが、長兄は「俺はそんなこと聞いたことないし、知らないぞ」と、どこか困惑した表情で答えたのだった。
 衝撃だった。それでは、あれはなんだったのか。思い当たることがないわけではなかった。五、六歳のころ、福島の田舎に、父親かだれかに連れられて行ったことがある。葬式か法事であったか。そんなときには、ふだん秘されていることが、親族のあいだでひっそり語られることがある。たぶん、幼いわたしは聞くともなく聞いていたのだ。なにか、遠い事件をめぐる一族の物語の破片のような。それは理解を超えた、だが強烈な記憶として刻みつけられた。そういえば、炭をあきなう山師の父は会津にも山を持っていた、という。わたしはどうやら、会津に、喜多方に深いところで繋がっていたのである。
 ささやかな連載はいま、ルーツ探しの旅への予感とともに幕を開ける。

福島民友「赤坂憲雄の喜多方だより」2020年4月29日 掲載

2 汝の足元を深く掘れ 2020年5月27日

 いまはまだ、東京の書斎に籠もって、コロナ以後の社会を喜多方からどのように起ちあげることができるか、それだけを考えている。はっきり見えてきたことが、すくなくともひとつはある。大都市圏から地方へと、ゆるやかなものであれ、一定の人口移動が起こるだろうということだ。喜多方にはすでに、たくさんの可能性の種子が蒔かれているのではないか。

 パトロン精神豊か

 喜多方というまちには、たしかに不思議な魅力がある。藤樹学、自由民権運動、美術倶楽部など、このまちは地域の自治と自立にまつわる固有の風景を織りあげてきた。それはどうやら、喜多方の文化力に深いかかわりがあるようだ。司馬遼太郎さんが『街道をゆく』の会津篇のなかで語っていたように、近世の会津は全国でも数本の指に数えられる文化と教育の 藩であった。そのなかでも、とりわけ喜多方の文化風土には、外にたいしておおらかに開かれた独特の表情がある。
 わたし自身が会津・漆の芸術祭、喜多方市立美術館のセピロマ展、喜多方発21世紀シアターなどにかかわりながら、そのことを痛感してきた。すくなくとも、このまちには芸術や文化にたいするパトロン精神が、思いがけず豊かに見いだされる。大正時代には、まちの旦那衆によって、喜多方美術倶楽部がつくられた。よそから芸術家たちを迎え、いまにいうアー ティスト・イン・レジデンスを行い、美術館まで創ろうとした。それは確実に、いまに繋がっている。市立の美術館が二十五年の歴史を刻んでいる。
 まちなかに点在する数千の蔵が象徴しているように、商業で栄えた地域であるがゆえに、町衆の力というものがいまも生きている。商売でもうけたお金は貯めこむのではなく、地域への貢献にきちんと使わねばならないと、ジイさまから言い聞かせられて育った、そう、だれであったかが、酒の席でぽつりと呟いたことを忘れることはない。こうした町衆の力を呼 び覚ますことから、あらたな地域づくりのステージが姿を現すのかもしれない、と思う。

 文化芸術が仲立ち

 わたしのなかには、中央集権から地域分権へと、この国のかたちを変えてゆくべきだという信念らしきものがある。社会学者の鶴見和子さんが提唱された〈内発的発展論〉に支えられてきた。それぞれの地域の歴史や文化、風土を拠りどころとして、あくまで内発的にあすの地域社会のイメージを思い描こうとする。そこにはきっと、〈汝の足元を深く掘れ、そこに 泉あり〉という声がこだましている。みずからの足元に埋もれている可能性の泉を信じられぬ者たちには、豊かで創造的なあすが訪れることはない。
 だから、文化創造都市という考えかたに惹かれてきた。わたしは佐々木雅幸さんの『創造都市への挑戦』(岩波現代文庫) に学んできた。文化や芸術をもって、あらたに再興を遂げるいくつもの都市の姿が、そこには希望とともに描かれている。文化や芸術を仲立ちとして、喜多方のまちやそこに暮らす人たちが元気になることをめざす。たくさんの人々がワクワクしながら訪れ、小さな幸福に満ちた出会いが生まれる。そこに、あらたな仕事が芽生える。そんな物語の誕生の現場に立ち会ってみたい。

福島民友「赤坂憲雄の喜多方だより」2020年5月27日 掲載

3 蔵とアートと演劇のまちへ 2020年6月24日

 いま、喜多方はラーメンと蔵のまちである。
 わたしは麺喰いである。大のつくラーメン好きだ。先日も、最後の晩餐になにが食べたいか、という話題になって、おいしいラーメンがいいかなと答えた。いくらか呆れられたが、豪華なフランス料理なんて、まるで興味が湧かない。これからの喜多方通いの愉しみの ひとつは、疑いもなくうまいラーメンを食べることである。
 しかし、同時に、喜多方はいつまでもラーメンだけで語られ続けていいのか、という思いはある。一抹の寂しさが拭えない。それだけで、文化創造都市・喜多方を名乗ることはむずかしい。

 芸術生まれる現場

 もうひとつの蔵こそが、喜多方の明日を照らしだすたいせつな地域資源となるにちがいない、という予感がある。数千の大小さまざまな蔵が、市内には点在する。これほどの蔵のまちはたぶん、全国的にも少ないだろう。思えば、蔵というのはどこか不思議な場所である。それは、日常の暮らしのすぐかたわらに転がっている異界であった。民俗学者はつい、そんなふうに言ってみたくなる。なにしろ、そこには蔵ボッコなどと呼ばれる神だか妖怪だかが棲んでいる、と信じられていたのだ。蔵という場所のもつ非日常性、または異界性は、ひそかな鍵ではないか。
 とはいえ、この蔵という地域資源がいま、その価値を認められているかといえば、いささか心もとない。休眠状態にあり、崩れかけている蔵がたくさんある。それを、多様な、文化活動の場として活用してゆくことができないか。喫茶店、アクセサリーショップから、ミニシアター、ギャラリー、工房、コンサートホール、写真館…まで、無限に活用のかたちは考えられる。あえて夢語りをしている。蔵という異界への入り口を数も知れずかかえた喜多方は、だから、なによりアートと演劇が似合う。
 蔵はやがて、日常と非日常のあわいのような、文化と芸術の生まれいずる現場となる。蔵をめぐるささやかな歴史や物語、さまざまな蔵の記憶を掘り起こしながら、あらたな蔵のある風景を創造してゆく。たとえば、古民家のリノベーションを手がける若手建築家を招聘して、蔵活性化プロジェクトを立ち上げる。蔵の再生にたいして、市から助成金を出して支援する。あたらしい風景の創出事業の一環である。喜多方の景観のシンボルとして、蔵と文化や芸術との交わりを演出してゆく。くりかえすが、めざすべきは〈蔵とアートと演劇のまち〉である。そこに演劇が含まれているのは、喜多方発21世紀シアターが刻んできた歴史があるからだ。子どもたちと演劇との関わりはきっと、未来をつくる糧となる。未来の子どもたちのために、ただそれだけを想えばいい。

 やわらかく変わる

 喜多方のまちのそこかしこに、さまざまな世代の、とりわけ若者たちの居場所と働き場所が生まれてほしい。安心して働き、子育てをすることができる地域には、移り住む人たちや、くりかえし訪れる人たちが増えてゆく。まちの風景はそうして、やわらかく変わる。
 宮沢賢治の励ましの声が遠くから聞こえてくる、≪都人よ 来ってわれらに交れ 世界よ 他意なきわれらを容れよ≫と。地域こそが主役であってほしい、と願う。 夢物語にはさせない。

福島民友「赤坂憲雄の喜多方だより」2020年6月24日 掲載

4 これって、自由民権運動よね 2020年7月29日

 思えば、2011年の7月20日であったか、わたしは喜多方市にいた。大和川酒造の昭和蔵のなかで、二百人ほどの人々の参加を得て、会津から未来を語りあうためのシンポジウムを開催したのだった。だれもが言葉に飢えていた。いま、なにが起こっているのか、なにをなすべきなのか、知らなかった。答えのない無数の問いが浮遊していた。とにかく言葉を交わ しあうことが必要だったのだ。
 いつまでも議論は続いたが、時間は尽きた。みな興奮の余韻を曳きずっていた。参加してくれた人たちは一人、二人と蔵の外へ、原発事故がもたらした厳しい現実のなかへと帰っていった。主催したわたしたちに声をかけてくれる人は多かった。忘れがたい言葉があった。六十代の女性であった。「これって、自由民権運動よね」と、その人は笑みを浮かべながら言ったのだ。かけがえのない贈り物だった。涙がこぼれそうになった。

 風土根ざした自立

 わたしは民俗学者である。それゆえにか、およそ原発などというものには興味がなかった。しかし、あの次々に爆発する原発の映像を前にして、あることを確信した。専門家を称し、称される人々はだれ一人として、見えない原子炉のなかでなにが起こりつつあるのかを説明することができなかった。おそろしい現実がむき出しになった。そんな、科学の名においてコントロールできないものに、わたしたちの未来を預けることはできない。それがわたしのくだした結論であり、いまも変わることはない。
 いつしか、原発に依存しない社会を創るために、自然エネルギー が必要なのだと思うようになった。原発に象徴される中央集権的 なシステムから、自然エネルギー に拠る地域分散型のシステムへの転換というテーマが浮上してきた。じつは、あの九年前の喜多方シンポジウムのなかでは、自然エネルギーの可能性がさまざまに問いかけられていた。自然エネルギーの魅力は、それが、それぞれの地域の風土に根ざした自治と自立の拠りどころになることだ。エネルギーもまた、地産地消をめざすべきだ。そうして地域の内発的な発展を促す技術の体系が産み出されることに、希望を託したい。

 暴走する科学技術

 わたしは自然エネルギーが「正義」であるなどとは、まるで信じていない。それはたんなる技術であり、技術はそれを支え制御するモラルや思想なしには、いくらだって暴走し、やがて災厄の源になる。だから、原発というエネルギーのシステムからは、やわらかく 離脱のプロセスをたどるべきだと考えている。
 わたしたちはいま、いたるところでテクノロジーの暴走を目撃している。まるで『風の谷のナウシカ』の世界のようだ。国家が専制的な支配のテリトリーを広げるために、グローバル企業が効率的に人間を去勢し、莫大な利益を手に入れるために、科学と技術は囲いこまれ、隠されている。市民のための科学や技術は、もはや幻にすぎないのか。
 だから、いま、しなやかにしてしたたかな、新たな自由民権運動が求められている。民がみずから声をあげることから、始まる。この地にはきっと、自治と自立への呼び声がこだましている。

福島民友「赤坂憲雄の喜多方だより」2020年7月29日 掲載

5 あらたな入会の思想をもとめて 2020年8月26日

 すぐれた書物は、時代の移ろいのなかで幾度でも、あらたに発見される。あたらしい読者に出会い、あたらしい意味を見いだされる。たとえば、コロナ禍のなかで、カミュの『ペスト』という小説が再発見されたように。

 出会いなおした本

 東日本大震災のあとに、わたしがはじめて読んだ本は、会津の人・柴五郎の「遺書」を収めた『ある明治人の記録』だった。会津藩士が下北半島へと流刑のように追われた、凄惨な記録である。再読であった。わたしはそれを、震災後を生きる覚悟を固めるために読んだ。そんなふうに震災後に出会いなおした本は、石牟礼道子の『苦海浄土』や井上ひさしの『ボローニャ紀行』など、たくさんある。
 柳田国男の『都市と農村』もまた、その一冊であった。岩波文庫への収録にあたって、解説を依頼された。くりかえし読んできた本であるが、震災後の東北について考えるための示唆に満ちていることに驚かされた。昭和四年に刊行された、古めかしい、いかにも地味な論考が、あらたな生命を吹き込まれたように感じられて、ひそかに興奮した。「柳田はそこで、とてもたいせつな指摘をおこなっている。たとえばこの国の都市は農村の出身者たちによって作られた、という。 そうして、都市と農村は人やモノの移動によって有機的につながれてきた。あるいは、盆地にいだかれた地域はひとつの小宇宙であり、地産地消にねざした自治や自立の拠点でありうる、ともいう。会津のこれからの姿を思い描くときに、重要な導きの糸となる。小宇宙としての盆地と再生可能エネルギーとは親和性が強い。再エネはその地域の自然生態系のうえに、循環型のエネルギーシステムを構築することをめざすからだ。
 柳田は学生のころから、協同組合の必要を説きつづけた。村にあった「協同の一番古い形」として、結が見いだされた。頼母子などは、たがいに見知った関係のなかで金銭の融通がおこなわれる、いわば 信用組合の前史をなすものだ。いまも当たり前におこなわれている、と喜多方で聞いたことがある。
 柳田によれば、地引き網による漁獲物は、浜で分配が終わるまでは、まだだれの私有とも認められなかった、という。海草など、浜辺への漂着物についても、みなの物という感覚が残っていた。山村における共同狩猟では、参加者は だれもが平等に獲物の分け前にあずかることができた。山野河海という自然との交渉のなかに、もっとも古風な協同労働のかたちが見いだされていた。

 ともに助け合う場

 かつて山野河海は入会地であり、固有の慣行が存在した。貧しい家々が特別な利用を認められた。ともに助け合う、相互扶助の場であった。山野の幸が、困窮した人々を生かし支えたのである。
 近代において、村を貧しくしたのは「共有林野の分割と譲渡」であった、と柳田はいう。会津の山野や川を舞台とした、小水力やバイオマスなどの再エネは、あらためて自然環境を「みんなのもの」 としてデザインしなおすことから 始まる。野生の領域が広がるなかで、「コモンズ」という名のあたらしい入会の思想を再編しなければならない。

福島民友「赤坂憲雄の喜多方だより」2020年8月26日 掲載

6 ここにしかない宝物 2020年9月30日

 会津型に出会った。これはとても大切な喜多方の文化資源だと思った。いつだって、ほんの思いつきからはじまる。蔵の里のなかをしばらく振りに歩いた。会津型が眼に飛び込んできた。はじめて解説も読んでみた。なぜ、気づかずにきたのか。
 それから、喜多方市役所で文化課の清水明日香さんにお会いする機会があった。喜多方に移り住んで、二、三年とか。京都の大学では仏像を専門に学んだ、という。その清水さんが文化芸術創造都市の担当であった。いま取り組んでいるのが会津型だと知って、うれしい偶然にほくそ笑んだ。

 愛し守る人がいる

 人がいた。会津型を愛する人がいた。これはどんなときにも、決定的な条件である。話を伺ううちに、少しずつ会津型を大事に守ってきた人々の姿が見えてきた。「広報きたかた」の七月号に登場していた人々。とりわけ会津型研究会 の冠木昭子さん。まだ、誰にもお会いしたことがないのに、心がはずんだ。この愛の深さと広がりは信じられる。わたしの思いつきは、すでに根っこのある現実の一部だった。会いにいきたい。
 喜多方市立美術館あたりが率先して、本格的に取り組みはじめたら、会津型をめぐる風景はきっと一変する。特別展をやれないか。 そこに、デザイナーやアーティストをどれだけ巻き込むことができるか、それが鍵だ。かれらが会津型の隠された、かぎりない魅力を発見してくれる。今の時代に生かす手だてを教えてくれる。それに、喜多方蔵のまち芸術祭と、わたしや仲間たちが以前から名づけて手探りしてきたアートの祭りが現実になれば、目玉イベントのひとつになりそうだ。妄想が疾走をはじめている。こんなときは、遊びに身をゆだねたほうが愉しい。
 そういえば、ここまで、会津型とは何か、まったく説明せずに来てしまった。喜多方ではかつて、会津型と呼ばれる、着物などを染めるために使う染型紙が作られ、東北一円に行商で運ばれていた。大正時代に最盛期を迎えるが、しだいに衰退して、いつしか幻の染型紙となっていった。それが小野寺家の蔵から、三万七千点におよぶ染型紙や関係資料が発見されて、市に寄贈された。いまは県の有形民俗文化財に指定されている。会津型には温かく泥くさい、喜多方の自然や風土を感じさせるものが多い、という。「喜多方にしかない地域の宝」(冠木昭子さん)なのだ。

 まちのあちこちに

 わたしも早速、この会津型プロジェクト (と勝手に名づけているだけだが…)に、外野席から参加することに決めた。わたし自身の本の装丁に使うことにしたのである。なにしろ、会津型は著作権フリーであり、みんなに使ってもらうことにこそ意味がある。
 喜多方を訪ねると、そこかしこで会津型に出会う。それが、会津の風土にいだかれた意匠 (デザイン) であることを知らされる。たとえば、みちのくの夏祭りのなかに、絣模様に染められた浴衣の娘たちがゆき交い、踊る姿が見られたかもしれない。それって、会津型が産み落とした、喜多方発の、 東北ファッションの原風景のようなものだからね、と少しだけ誇らしげに教えてあげるのもいい。いずれ、喜多方のどこかの蔵のなかに、会津型ミュージアムが誕生する。その気になったが、勝ちだ。

福島民友「赤坂憲雄の喜多方だより」2020年9月30日 掲載

7 賢治さんの言葉に耳を傾けたい 2020年10月27日

 宮沢賢治には「農民芸術概論綱要」と題された不思議な文章がある。いくら読んでも、わかったようでわからない、わかったことしかわからない。そんなとき、わたしは共振れする言葉だけに眼を凝らす。たとえば、「おれたちはみな農民である」と序論には見える。この農民はたぶん、生活者や市民とも置き換えが可能だ。むしろ、「百姓」という言葉のほうがしっくり来る。百の姓をもち、百の仕事をなす者の意か。それならば、わたしだって百姓の仲間だ。賢治さんがそうであったように。

 世界の幸福を願う

 あるいは、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」とある。賢治はなにしろ、この世界にはほんとうの幸福があると信じていた人だ。世界が幸福になるとは、いったいなにか。個人の幸福にたいして優先される、世界全体の幸福とはなにか。これが、ファシズムの臭いがすると批判されかねない言葉であることは、わたしだって承知している。
 しかし、その世界に、人が織りなす社会のみならず、鳥獣虫魚や樹や草を抱いた自然環境が丸ごと含まれるならば、わからないでもない。人間中心主義がいたるところで破綻し、懐疑にさらされている。愚かな人間が王様であり続けては、地球そのものがもたない、壊れてしまう。因果なことに、世界の全体が幸福になることを願わねばならない時代に、わたしたち は生かされている。
 さらに、わたし自身のお気に入りの、こんな言葉はどうか。「都人よ 来ってわれらに交われ 世界よ 他意なきわれらを容れよ」という。この前には、宗教は疲れて、近代科学に置き換えられ、しかも科学は冷たく暗い、芸術はわれらを離れ、しかもわびしく堕落した、とあった。芸術をもって、「あの灰色の労働を燃やせ、と激しく煽ったあとに、転調でもするように、都人よ・・・・・・と書き込まれて あったのだ。

 吉幾三さんを連想

 ここで、いささか唐突に、吉幾三さんの「俺ら東京さ行ぐだ」を想い起こさずにはいられない。田舎を嫌って、東京へと夢と野心を抱いて脱出したはずの俺はなぜ、「銭コア貯めで 東京でベコ(牛) 飼うだ」といい、「東京で馬車引ぐだ」「銀座に山買うだ」と不遜にも言い放つのか。東京でたっぷり稼いで、高層マンションを買うわけでもなく、田舎に凱旋するわけでもない、あくまで東京にいて牛を飼い、馬車を引き、山を買うのである。ここにはひそかに、価値観の転倒が埋め込まれてある。
 賢治と幾三は厚い友情で結ばれている、などといえば、笑われるか。不穏な空気が漂う。俺たち百姓が主人公だとうそぶいている。賢治さんは都人に向けて、われらが暮らすここにやって来て、われらと交歓するがいいと呼びかけている。幾三さんはおどけて油断させながら、東京のど真ん中に百姓の哲学を持ち込んで、異形の風景を創り出してやると凄んでいる。 双面のヤヌスのような兄弟だ。たぶん、この次に訪れるステージの主役は芸術である。いま、ここに、百姓の芸術を呼び返さねばならない。
  だから、喜多方蔵のまち芸術祭について語りたい。それはいまだ、影も形もなく、名称すらもきだかではない。「都人よ 来ってわれらに交われ」という声を、静かに響かせよう。百姓の芸術を再興せよ。

福島民友「赤坂憲雄の喜多方だより」2020年10月27日 掲載

8 かつて、ここは映画の街だった 2020年11月24日

 喜多方蔵のまち芸術祭なんて、たしかに影も形もありゃしない。それでも、芸術祭をテーマにしてシンポジウムを仕掛けてみた。それはたぶん、こぢんまりとしたものであれ、二年後には開催されることになる。そう、少なくともわたしだけは勝手に心に決めている。蔵を舞台とした、アートと演劇と音楽の祭りである。その祭りのあいだ、喜多方の街のいたるところに会津型が氾濫するはずだ。
 そのシンポジウムの終わりに近く、会場からこんな発言をいただいた。かつて喜多方は映画の街だった、いまは映画を観るために米沢や郡山に出かけてゆく、喜多方にも映画館がほしい、と。さらに、シンポジウムのあとの懇親会の席では、蔵の会会長の矢部善兵衛さんの思い出話に耳を傾けることになった。若き日に、矢部さんはこの街で、映画好きな仲間たちといっしょに映画を制作したり、自主上映会をしていたらしい。うれしくなった。なにしろ、わたし自身がどこか小さな蔵を借りて、ささやかな映画館「喜多方シネマ」を創りたいと妄想を紡いできたのだから。ワクワクするに決まっている。

 有志集まる契機に

 その第一弾として、来月の十日に北方風土館の昭和蔵で、「山の焚火」というスイス映画の上映会をおこなう。アルプスの山の民の家族が織りなす、神話的な美しい物語である。この二月であったか、渋谷の小さな映画館で上映され、そのとき短いトークに参加している。パンフレットには解説も書いている。すばらしい映像詩である。会津に暮らす人たちに観ていただきたいと思い、はじまりの映画に選んだ。上映後のお喋りのなかで、ほんの数人であっても、「喜多方シネマ友の会」でも起ちあがるかもしれないと、またしても妄想が跳ねている。
 「山の焚火」を選んだ理由は、もうひとつある。その映画の配給権を持っているのは、フリーの女性だった。よくは知らないが、大きな配給会社とは一線を画して、少数の観客であってもいい映画を観てもらいたいと、いわばインディーズの映画配給をおこなう人たちが現れている。 シネコンでは観られない映画と出会える場が、気がついてみれば、ほんの五十席規模のミニシアターとして、東京のあちこちに生まれている。それならば、喜多方市内の蔵がミニシアターになってもいい、と思った。それが可能な時代なのだ。

 ともに未来を創る

 いつか、喜多方蔵のまち芸術祭のひと齣として、小さな映画祭を開催することができるかもしれない。狙っているテーマがある。若い世代の女性監督たちが、ドキュメンタリー映画のジャンルに群れをなして出現しつつあることに、最近になって気づいた。男たちの作るものとはあきらかに異質な肌触りの映画が、とりわけドキュメンタリー分野に生まれているのは、おそらく偶然ではない。時代がそれを必要としているのだ。それら女性監督を応援することには、きっと、ともに未来を創るという意味合いがある。
 東京に背を向ける必要はない。しかし、過剰な思い入れで眼を曇らされていても、つまらない。地方で、たとえば喜多方でしか体験できない贅沢が、じつはいくらでもある。コロナ禍が問わず語りに、 こっそり教えてくれたことではなかったか。都人よ 来ってわれらに交われ、と低く呟いてみよう。

福島民友「赤坂憲雄の喜多方だより」2020年11月24日 掲載

9 いまこそ経世済民のときだ 2020年12月22日

 思えば、ちょうど十年前のいまごろ、年が明けてすぐに、元日付で勤めていた大学を去ることになった。それ以前の一、二年のことは、記憶が混濁しているかのように曖昧模糊としている。名ばかりで、いわば窓ぎわ族だった。抗うものに場所はなかった。そうして山形を離れて、東京に舞い戻った。二十年かけて創ってきた東北学は、そこに置いてきた。からっぽだった。
 そして、東日本大震災が起こった。すべての言葉が奪われてしまったかのような日々のあとに、福島を、あらためて故郷として選びなおそうと思った。鮫川村が父親の故郷である。しかし、ほとんど繋がりは切れており、故郷という意識は希薄だ。それでも、震災後に白河市やいわき市で講演をしたときなど、父を知る人たちが来てくださり、声をかけてくれる。そんなときには、涙をこらえながら、つたない話をする羽目になる。

 故郷 選び取るもの

 この時代にはきっと、故郷はあたりまえに故郷として存在するのではなく、それぞれに選び取るものと化しているのではないか、などと思う。すこしだけ気が楽になる。選び取ればいいのだ。東京に戻り、武蔵野学を立ちあげようと思ったとき、すぐに気づいた。ここには故郷が不在だ。わたしの父がそうであったように、だれもが故郷喪失者なのだ。だから、武蔵 野は移民の大地である、と『東京人』という雑誌に書いた。さらに心が穏やかになった。
  一年前のいまごろ、また転換のときが訪れた。あと数カ月で、福島県立博物館を離れねばならない。それ以降の立ち姿をめぐって、わたしは迷いと変巡にまみれていた。このまま福島を去って、以前から晩年の仕事にしたいと考えていた武蔵野学の構築に向かうことになるのか。そうはならなかった。 喜多方を拠点としながら、会津全域をフィールドとして、〈あるく・みる・きく〉仕事を重ねてゆくことを選んだ。

 実践的な東北学に

 そうして東北学の最終章を手探りしてゆこうと思った。武蔵野と東北との秘められた関係については、興味深いテーマであり続ける。父のうしろ姿を凝視しなければならない。それにしても、もし、あのまま福島を離れていたら、と想像することがある。身震いせずにはいられない。確実に、これだけは言える。そのときには、東北学が根腐れを起こすだけではなく、わたしの知や思索そのものが拠りどころを失い、いずこへとも知れず漂流を始めていたにちがいない、と。
 わたしの東北学は、これから実践的な色合いが濃くなってゆく。すぐに批判的な応答があった。学者は学者としての立ち位置を踏み外すべきではない、ということか。しかし、覚悟はとうに決まっている。抽象的に東北について学び、研究することは、わたしのなかでは終わっている。地域主義やエコロジーといった、むしろ意識的には遠ざけてきた学問領域を手探りしながらの、ささやかな実践への試みこそが、わたしが求めているものだ。
 柳田国男がそうであったように、わたしはきっと、経世済民の志だけは手放すことができない。学問救世などという古さびた言葉は、この時代には死語であり、嘲笑をしか誘わないだろう。かまいはしない。学問は世のため、人のために存在するべきだ、と書きつけておく。

福島民友「赤坂憲雄の喜多方だより」2020年12月22日 掲載

10 土蔵は歴史の玉手箱であった 2021年1月26日

 戊辰戦争はいわば、近代のはじまりに起こった内戦であった。東北は敗北を強いられた。逆賊の汚名を着せられた士族の末裔たちは、追われ、異郷へとさすらうことになる。その足跡に、敗者の精神史に眼を凝らしてきた。

 民主的な憲法草案

 明治十年代の自由民権運動のなかに、千葉卓三郎という男がいた。仙台藩士であった。東京の日市の山村で、小学校の教員をしながら、自由民権運動にかかわっていた。会津藩士の姿もあったというが、まだ名前すら確認していない。かれらが流れ着いた三多摩は、薩長に反感をもつ旧天領地帯であり、東北の士族の末裔たちが歓迎される精神風土が存在した。千葉は明治十六(一八八三)年、肺結核のために亡くなった。享年三十 一歳であった。
 学芸講談会という、山村の民衆が自発的に学びのために組織した結社があった。その学びから、いわゆる五日市憲法草案が生まれた。起草者は千葉である。現存する民間の憲法草案のなかでも、驚くほどに詳細な、きわめて民主的な憲法草案として知られる。国家権力の弾圧に抗いながら、民主主義を学び選び取ろうとした人々が姿を現していたのだった。
 その中心に、「ジャパン国法学大博士 タクロン・チーバー氏」などと、まるで宮沢賢治の童話のような、あるいは、井上ひさしの『吉里吉里人』を思わせるような、ユーモアあふれる自称をする千葉卓三郎がいたのだった。現実の国「家とはズレた場所に、もうひとつの理想の国家を受肉させてゆく想像力のありようは、いかにも東北的なものであった。

 異端の風土がある

 戦後に「憲法研究会」の憲法草案の作成にかかわった、南相馬市小高の鈴木安蔵を思いだすのもいい。やはり小高を故郷とする作家の島尾敏雄が、こんなことを語っていた。東北には「日本」からの離脱を可能とする風土がある、東北の思想家や文学者たちには、どこか異端の人が多い、かれらはみな、どこか寂しい……と。この異端の風土にはきっと、すでに数も知れぬ将来の東北を紡ぐ種子が播かれている。
 五日市憲法草案が千葉卓三郎の名前とともに発見されたのは、一九六八年のことだ。日市の山村の、旧家・深沢家の土蔵が舞台となった。いまは屋敷跡に土蔵だけが残る。ここで歴史家の色川大吉さんと教え子たちが、五日市憲法草案を発見したのである。
 色川さんは何度も、土蔵を開けて調査させてほしいと頼んだが、断られてきた。十年近い歳月が流れ、ようやく許可が下りた。小さなぼろ蔵だった。膨大な本があった。 深沢家は買い求めた本で図書室をつくり、だれもが自由に読めるようにしていた。茶碗や皿といっしょに、和紙の綴りの本が積まれてあったが、手に触れるだけで粉のように散った。二階にあった風敷包みの底から、自由民権運動にかかわる文書が出てきた。そのなかに、和紙に墨で書かれた二十四枚の憲法草案が見つかった。八十年あまりの眠りから覚めたのだった。『五日市憲法草案をつくった男 ・千葉卓三郎』という本には、その経緯が生々しく語られている。
 土蔵は歴史の玉手箱だった。 きっと喜多方の蔵が永い眠りから覚めるとき、たくさんのドラマが幕を開けることになる。会津の自由民権運動にかかわる資料も発見されるかもしれない。喜多方が再発見されるときだ。

福島民友「赤坂憲雄の喜多方だより」2021年1月26日 掲載

11 さらば、男らしさの神話よ 2021年2月23日

 違和感が拭えない。会議の場に女性が多いと時間がかかるのだ、という。それを女性蔑視やら差別やらの言葉で、いわば真綿でくるむことに対して、なんとも牧歌的だと感じてしまう。年老いた政治家にありがちな失言だと、苦笑混じりに済ましているかぎり、現実は変わらない。
 男ばかりの会議はたしかに早く終わる。事務方が作ったシナリオ 通りに、ろくな質問も議論もなく進んで、承認して終わるのがつねだ。わたしが数カ月ほど、委員として参加した東日本大震災復興構想会議は、なぜかシナリオがなかった。毎回のように議論は五、六時間に及んだ。つまらない演説には怒号が飛んだ。居眠りする者はいなかった。メディアには「学級崩壊」と書かれ、批判を浴びたが、実態は厳粛にして誠実な議論の場であった。

 会議が踊りはじめた

 ある村か町であったが、文化財の活用をめぐる会議の座長を引き受けた。メンバーは文化財行政にかかわる重鎮の男性が五人ほど、ほかには若者と女性が一人ずつだった。何とも雰囲気が重々しく、暗かった。男たちの演説に終始する。なにしろ三、四十年も前に町の文化財として指定した、専門の委員たちばかりだった。ただし、いま、それがどのような状態にあるのかは、ほとんど誰も知らない。これでは、活用など議論のしようがない。座長の特権で、女性の委員を三人追加してもらった。変化はあまりに明らかだった。会議がようやく踊りはじめたのだった。
 少なからぬ体験からいって、いたずらに長々と演説をするのは、年寄りの男たちである。最近は、わたしも老人の仲間入りしたせいか、話が長いとたしなめられることが増えた。役所や企業でそれなりの役職にあった男たちは、気をつけた方がいい。重々しく、しかし場違いな演説で、哀れなほどに浮いていることはないか。顔が赤らむ。肝に銘じることにしよう。
 いや、こんなことを書きたかったわけではない。むき出しになったのは、この国がすっかり年老いたという残酷な現実である。古さびた利権やしがらみに生きる人々が、この国を喰い物にしてもてあそんでいるうちに、ガラパゴスよろしく世界から置き去りにされてきた。たんなる女性蔑視といった問題ではない。この社会が壊れてゆく。とりわけ震災以後、思考停止が常態となってしまった。まさに原発やオリンピックは試金石だ。それはこの国の将来を創るための糧や礎石となりうるのか。五十年後の、八千万人の日本社会を思い描きながら、いま選ぶべきことを真っすぐに語りあうこと。それを回避してきた帰結が、そこに転がっている。

 比率を半々にする

 だから、あらゆる社会の意志決定の場面では、男女比を半々にするべきだ。断言してもいい。それだけで社会は変わる。風通しがよくなる。救世主なんてどこにもいない。利権やしがらみを離れた声にこそ耳を澄ましたい。もはや、どれだけ下駄を履かせたところで、男らしさの神話や、男たちのホモソーシャルな共同体に、将来を託すことはできない。
 それにしても、女と男が手を携えて参加する寄り合いのなかにこそ、あらたな民主主義が発見されるのかもしれない。入会地、頼母子、協同といった伝統のかけらが、明日を創るための拠りどころになる。 そんな逆説を、わたしは信じている。

福島民友「赤坂憲雄の喜多方だより」2021年2月23日 掲載

12 半島の浜にある処分場から 2021年3月30日

 その日、わたしは大分県の国東半島にいた。この半島を舞台として芸術祭が行われていた。飴屋法水さんの「いりくちでくち」と題された、一日がかりの演劇ツアーに参加していた。ほんの偶然であった。アーティストの名前も、その不思議なアートイベントについても、なにひとつ前知識を持たなかった。ただ、その日の午前九時すぎに、ある場所でバスに乗るようにとチケットに書かれてあった。
 わたしは夕方まで、だれとも言葉を交わさずに、バスに揺られて、半島のそこかしこ、十カ所ほどの場所を訪ねて、そこで行われる演劇らしきものに身を委ねたのだった。どこか記憶の深みへと誘われてゆく、亡者となって心の底に降り立つような旅は、体験したことのない深い愉悦と静かな驚きに満ちていた。

 家の記憶のかけら

 たしか三つ目に訪れたのが、浜の処理場だった。半島の住む人のいなくなった家々が解体されて、運び込まれてくる。小さな木切れにされた古材は種類ごとに分けられて、小山のように積みあげられていた。工程の最後にはチップになる。堆肥にしてみかん畑に撒いたり、シイタケ栽培の苗床にする、という。
 半島の失われた家々のかけらだった。家の記憶、家族たちの記憶、その断片。気に入った木片を拾って、あらかじめ渡されていた頭陀袋に納めるように、という声が聴こえた。それは結局、ツアーの終わりに訪れた海辺で、盆の送り火のように燃やして、海のかなたのあの世に返されたのだった。しかし、わたしには燃やす木片がなかった。拾わなかった、いや、拾えなかったのである。浜辺にある処理場が、あまりに東日本大震災の津波に流された村や町に点在していた、瓦礫の集積場に似ていたからだ。震災から三週間ほどが過ぎたころから翌年の秋にかけて、わたしは被災地を巡礼のように歩きつづけた。そこに瓦礫となって転がっているモノたちは、いまだ生々しく、泥や水にまみれ、ただ数も知れぬ記憶のかけらにいだかれていた。拾えるはずがなかった。
 震災から二カ月足らず、石巻であったか、足もとに一冊の泥まみれの文庫本を見つけた。思わず手に取って眺めた。林芙美子の『放浪記』だった。新潮文庫であったか。わたしはそれを、人に踏まれることのない場所にそっと置いた。そして、その文庫を大事に読んだかもしれぬ人を想った。

 優しくときに残酷

 百年を越える歳月のなかで、ゆるやかに朽ち果てていった半島の家々と、巨大な津波によって流され破壊された家々とのあいだには、どんな違いがあるのか。眼の前には、そっくりな情景が広がっていたのだった。浜の処理場の終わりには、オガ屑の山があった。カブト虫の幼虫たちの棲み処になっていた。
 わたしたちの棲む家は、森や林の樹木から造られる。その家が朽ちて、古材に分解され、木屑となり、虫たちのあらたな命の宿り場となる。樹の家に棲む者たちは、まだ自然のかたわらに生かされているのかもしれない。少しだけ幸せな気持ちになり、北の海辺の不幸に胸が苦しくなった。
 きっと現代アートの歓びは、眼の前にある現実を思いも寄らぬ角度から照らしだしてくれる、こんな体験のなかに生まれる。わたしはアートの優しく、ときに残酷な力を信じている。

福島民友「赤坂憲雄の喜多方だより」2021年3月30日 掲載

13 神隠しされた街にて 2021年4月27日

 詩人の若松丈太郎さんの訃報が届いた。若松さんの詩に初めて触れたのは、震災後のいつであったか。衝撃を受けた。その衝撃は体験したことがない肌触りのものであった。そこにはたしかに、チェ ルノブイリの街から福島を思いやり、原発の爆発事故のあとの福島 が幻視されていたが、その書かれた日付は3・11のはるか手前であった。
 「私たちが消えるべき先はどこか/私たちはどこに姿を消せばいいのか」「鬼の私はとほうに暮れる/友だちがみんな神隠しにあってしまって/私は広場にひとり立ちつくす」「神隠しの街は地上にいっそうふえるにちがいない/私たちの神隠しはきょうかもしれない」(「神隠しされた街」)

 福島の未来を予見

 詩人の想像力がたぐり寄せ、幻視のように浮かびあがらせていた福島の未来が、いま・そこに、むきだしの現実となって転がっている。神隠しに遭った街こそが現実であることに、それを予見していた人がいたことに、しかも、それ が詩人であったことに、わたしは畏れをいだく。
 福島県立博物館にもお招きして対談させていただいた。あくまで寡黙に、言葉をひとつひとつ探しながら語られる、もの静かな姿が印象に深い。哀しみも怒りも沈めて、ただ、いま・そこに顕われてしまった世界を凝視している。詩人という存在に、もしかすると初めて敬愛の念をいだいた。詩の言葉から、文学の言葉から励ましを いただいた。
 震災後、わたしたちの言葉は荒れすさんだ。科学の言葉が真っ先に失墜した。原子炉のなかで何が起こっているのか、ついにきちんと説き明かしてくれる専門家はいなかった。爆発事故よりも、それを語る言葉が不在であることに、不安を掻き立てられた。そんなワ ケのわからないものに未来をゆだねることはできない、と感じた。それはいまも変わらない。
 あるいは、政治の言葉が途方もない速度で劣化していった。あるべき政治とは、分断と対立を超えて、思想信条や利害を違える政治家たちがなんとか言葉をあやつり、少しでも多くの人々が納得できる落としどころを探すプロセスであり、その技法ではなかったか。 問答無用の数の論理だけが支配する場には、そもそも民主主義は存在しない。数を頼みとする権力が避けがたく腐敗する姿は、この国だけではなく、世界のあちこちで目撃されている。世界って、まだ こんなに野蛮に満ちていたのか、と思わずにいられない。言葉なき民主主義はありえない、民主主義は言葉だってことを忘れてはいけない。

 人と人の分断繋ぐ

 だから、詩や文学の言葉が再発見されてほしい。太宰治の言葉を思いだす。太宰はみずからの得意科目は「愛」だと広言し、「優しさ」とは人を憂えることだと語った。愛も優しさも尽きるところ、 他者を思いやり、自分とは異なった他者へのやわらかく開かれた想像力のうえに育まれる。詩人も作家も社会的には弱きカナリアである。それゆえに、かれらの傷ついた言葉はときに、分断されている人と人とを繋ぐ見えない力を秘め ている。
 若松丈太郎さんの残された詩に、わたしは励まされる。「世界の音は絶え/南からの風が肌にまとう/われわれが視ているものはなにか」(「みなみ風吹く日」)。 みなみからの風に眼を凝らせよ。ご冥福をお祈りします。

福島民友「赤坂憲雄の喜多方だより」2021年4月27日 掲載